この会の名称に採用された「アビヤ・ヤラ」という呼称(Abya Yalaと書く)、南北アメリカ大陸を指す先住民たちによる呼称というような説明を簡単にしているが、ピンとこないという人も多いのではないかと思う。実際のところ、『ラテンアメリカを知る事典』や『ラテンアメリカ文化事典』などを引いてみても、「アビヤ・ヤラ」についての項目自体がないどころか索引にも載っていない。つまりこれらの「事典」の中で一度も文字として書かれていない。このように実際に日本でアビヤ・ヤラについて言及されている論文や本は非常に限られている。無視されているといってもよい状況である。
ではラテンアメリカでは知られているのかと言えば、かなり幅がある、という印象だ。
このアビヤ・ヤラという言葉は、パナマの先住民グナ(ちょっと前まではクナと自称していた)の言葉で「成熟した大地」「生命に書くことのできない血の大地」というような意味を持っている。グナ自体が住んでいた土地は「グナ・ヤラ/ドゥレ・ネガ」などと呼ばれているため、南北アメリカ大陸を指す呼称を決める際に、そのままどうやら持ってきたわけでもなく、特別な言葉として採用されたようである。先住民は長らく、征服されて自らが生まれ住む土地であるにもかかわらず主権を奪われた大地を「インドアメリカ」と呼んでいた。インド人に間違えられてインディオと呼ばれたから、「先住民であるインド人のアメリカ」という意味であった。しかし、そもそもなぜ征服者の一員であるアメリゴ・ヴェスプッチの名前を冠した名前で、自らがルーツとなる土地を彼らに合わせて自分たちまで呼ばねばならないのか。そういう議論の中から採用されたのが、このアビヤ・ヤラである。
「私たちの土地や大陸に外国の名前をつけることは、私たちのアイデンティティを侵略者とその後継者の意思にゆだねることに等しい」タキル・ママニ
アビヤ・ヤラを使い始めたのは意外と古く、パナマから遠く離れた南アビヤ・ヤラの中央に位置するボリビアから始まったようだ。ボリビアのトゥパック・カタリ・インディオ運動(MITKA)の創設者の一人、タキル・ママニが1977年にパナマを訪問した後に提唱したとされている。90年には「先住民族の抵抗の500年」を展開したエクアドルのキト宣言などでもアビヤ・ヤラの名称が使われている(いうまでもなく1992年はクリストバル・コロンによるアビヤ・ヤラ到達と制服事業が始まって500年の年であった)。90年代にはエクアドルでアビヤ・ヤラ・エディトリアル(アビヤヤラ編集工房)が誕生したりコスタリカではアビヤ・ヤラ劇場が誕生したりしている。70年代、90年代につづく波は2000年代に起こっており、それはアビヤ・ヤラ先住民大陸サミットというアビヤ・ヤラの先住民が集まる大陸会議がアビヤ・ヤラの名を冠して(具体的には第2回の2004年から)開催されたことだ。こうした先住民の集会では、自治と主権の回復が重要な要求となっており、非先住民を中心とする国家行政府に対し、先住者としての先住民が尊重され、奪われたさまざまな権利の回復を求める運動となっている。この辺りの内容については、例えば小林致広さんの「「抵抗から権力へ」にむけての新たな転回:グアテマラにおける第3回アビヤ・ヤラ先住民族大陸サミットの意義」などに詳しい。
このブログのはじめににあたる
「ラ米講★アビヤ・ヤラ」を始めますにも書いたが、日本も植民地支配を行った国である、という意味でヨーロッパと同じ立ち位置にある。私たちは普段それを思い出すことすらほとんどない環境を生きているが、それはポジション的に思い出さなくても問題がない「強者」のポジションに自分たち自身がいるからだということを改めて考える必要がある。
そして、日本の植民地支配といって思い出される朝鮮半島、満州、中国租界地区、台湾、東南アジア、ミクロネシア諸島地域といった地域(その多くの地域で虐殺が実行されてきた)だけでなく、より古い沖縄や北海道なども紛れもない日本が征服し、現地の先住民から言語と文化を奪った歴史がある地域であることを思い出す必要がある。アイヌや琉球民族の人々は、今でも「日本民族」より政治的経済的に劣位に押しやられ、言葉を奪われ、土地を奪われ、そんな中で生きることを余儀なくされている。アイヌの人々が言葉を失うだけでなく、自らのルーツ自体を透明化することによって子どもを「和人」であるかのように育てることによって生きのびさせる方法を採らざるを得なかったということ一つをとっても、その差別と抑圧の苛烈さがひしひしと伝わってくる(こうした問題を考えるのに
『アイヌがまなざす:痛みの声を聴くとき』や
『アイヌの世界に生きる』などを手に取ってみるのもよいだろう)。
カナダの先住民であるタニヤ・タラガの
『私たちの進む道:植民地主義の陰と先住民族のトラウマを乗り越えるために』では、先住民の現代までつづく差別と暴力の中を生きるという経験は、民族としてトラウマを抱えた生を生きさせられており、その回復が非常に重要な問題となっているとそのあまりに激しい状況を書き綴っている(それは同時に
アフロ系子孫がアビヤ・ヤラ、特にアメリカ合衆国で生きる際の苦しみにもつながっている)。
新しく企画を始める(というかとりあえず継続させる)ために、どのような名前をつけるか、ということを考えたとき、私たちが今生きる現代世界、加速度的に平和や平等、人権といった理想が金儲けや力による服従の正当化という論理によって破壊されていき、プロパガンダにより、ヘイトが弱者への敵意を剥き出しにし、暴力を蔓延させることで管理国家化、警察国家化を推し進める、まさにディストピアへの転落をものすごい勢いで始めているというこの現代世界において、少しでも立ち止まり、考え、そういった暴虐の嵐に対してNOと声をあげ、裸の王様を引きずり下ろし、ともに一緒に生きていける社会を捜す旅をする、そういう入口になる場をつくりたいと考えたのだ。
アビヤ・ヤラという壮絶な虐殺と搾取の中を生き抜いてきた人びと、今も闘い続けている人々のことを通して、今まさにファシズムが立ち上がり、民主主義から独裁社会へと転換しようとしているこのときにこそ、民主的社会を求め、平等と正義を、暴力の記憶の継承を、その断罪を、取り残さない社会のあり方を模索しているアビヤ・ヤラのさまざまな生き方を通して考える機会となってほしいと考えたからである。
なんだか決起文第2弾みたいになってきてしまったが、日本でこれほどアビヤ・ヤラという先住民自身による呼称が透明化され、「アメリカス」といった西洋中心主義を大きく引きずった名前がありがたく重宝される状況は、日本自体が植民地主義やその暴力、搾取を今なお引きずり、自覚できていない、向かい合いきれていない、そういうことの現れなのではないかと思い、少しでもこうした叫びがあり、その叫びに応えることこそ、かつてたくさんの人々を虐殺し、収奪してきた人々の末裔ができる、一つの実践なのではないかと考えるからである。
2025年に私が編者となって出した
『日本から考えるラテンアメリカとフェミニズム』の序章でもアビヤ・ヤラについて書き、また25年のGWに新宿で開催された
ウカマウ集団の映画上映会で光栄なことに
トークに読んでいただいた時にもアビヤ・ヤラという名前を紹介させていただいた(26年に出た
『現代ラテンアメリカ社会を知るための47章』の第1章にも書いた。つまり書きまくっているのである)。そうすると、多くの人から、そんな声があるとは知らなかった。この言葉を大事にしたいという声を返していただくこととなり、ああ、やはり大切なことは、きちんと声に出して伝えていかなければいけないのだなと痛感した。だからこそ、この会を始めるにあたり、アビヤ・ヤラ、という名前を入れたかったのだ。彼らの叫びを消費せず、尊重し、ともに考え、生きていくためのそんな道を、ぜひ皆さんと一緒に考えながら探して行けたらと思う。
同時に、真面目に難しいことばっかりをやっていても行き詰まってくるものである。楽しくやる、リラックスしてやる、面白い話をする、いろいろな試みを始められたらと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。(水口)